2010/01/21

労働組合の歩みと変遷 2

■「2・1ゼネスト」計画
1946年(昭和21年)、共産党が支配する労働組合の全国的組織として、産別会議(全日本産業別労働組合会議:産業別に整理統合された労働組合の全国的組織。1958年(昭和33年)、分裂により解散)が結成され、その勢力が急速に強くなっていきます。共産党の組織である産別会議は、昭和21年頃になると反政府運動に転じます。共産主義革命を実行しようと思うようになるのです。共産党主導である産別会議の組合運動に対抗する為、府県別に連合した労働組合の全国組織として日本労働組合総同盟(総同盟)も同年に成立し、反共の立場を明確に出してきます。昭和21~23年にかけて労働組合は急増し、ピークとされる昭和24年の推定組織率は約56%です。当時の労働組合結成の波は凄まじく、いろいろなところに労働組合が作られています。

産別会議は、1947年(昭和22年)2月1日を期して、産別会議を中心とする日本の全労働者が職場放棄する「2・1ゼネスト」を計画します。国家公務員、地方公務員の賃上げ闘争の共闘組織である、全官公庁共同闘争委員会を中心に全国労働組合共同闘争委員会が組織され、600万人の労働者が結集したと言われています。

時を同じくして、ワシントンでは、「戦争が終わればアメリカの主要な敵はソ連だ」という考え方が主流になっていきます。「そのような状況になれば、ソ連とアメリカは最終戦争をやらなければならない。その時、日本は非常に大事な最前線だ」という考え方ですそれを受け、GHQの中では左派の力が次第に弱くなり、「このまま左派に共産主義をやらせてはいけない」ということになっていくのです。

「2・1ゼネスト」共闘会議議長・伊井弥四郎(後の共産党中央執行委員)は、「私はイデオロギーのために闘っているのではありません。労働者のために闘っているのです」と公言していました。昭和22年1月31日、「2・1ゼネスト」の前夜、GHQのは伊井弥四郎をNHKに連れて行き、総司令部の声明を読ませます。伊井弥四郎は、「全国の労働者の皆さん。残念ながら、我々が明日、予定していた2・1ゼネストは、ダグラス・マッカーサー元帥の命令により、中止せざるを得なくなりました。」と演説する。そして、涙を流して、「労働者諸君、一歩後退、二歩前進」という有名な言葉を言って、2・1ゼネストは回避されるのです。2・1ゼネストが決行されていたら、日本は共産主義国家になっていたかもしれません。日本は、共産革命危機前夜まで来ていたのです。

日本政府は労働組合対策を実施するため、1947年(昭和22年)6月10日、厚生省の中にあった労働局を独立させて労働省としています。2001年(平成13年)1月の中央省庁再編で、再び厚生省と労働省が統合されたのは、そのような経緯があった為です。一方、官公労組の中心は、国家公務員、地方公務員、公共企業体の労働者等でした。1948年(昭和23年)、「マッカーサー書簡」により、国家公務員、地方公務員、公共団体等のストライキ権は剥奪されます。

■レッドパージと朝鮮戦争の勃発
冷戦構造の中でGHQは朝鮮戦争を意識するようになります。「北朝鮮が恐らく韓国に攻め込んでくるだろう。アメリカは最前線で戦わなければならない。その時には、最前線の平坦基地として日本は非常に大事である」と。当時のジョン・フォスター・ダレス国務長官は、背後にいるソ連の勢力拡大を食い止めるために、「日本を反共の防波堤」としアメリカの同盟国として強化・隷属するという政策に転換します。これを受け、労働組合も共産党離れが進み、総同盟と産別会議の対立が激化します。

1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮戦争が勃発。朝鮮戦争を戦うために、GHQは朝鮮戦争勃発直前に、総司令部の指令で共産党中央委員24名全員を公職から一斉に追放します。いわゆる「レッドパージ」の開始です。日本政府は、朝鮮戦争勃発後も言論界、官界等に共産主義者が多数いるということで、共産党員の排除を続行します。これらを総称して「レッドパージ」といいます。

旧合法的社会主義政党の政治勢力を結集して、1945年に結成された社会党は、サンフランシスコ講和条約の賛否を巡って左右両派が対立し、1950年(昭和25年)10月24日に左派社会党と右派社会党に分裂します。河上丈太郎を中心とする右派社会党は、アメリカ等西側陣営と、とりあえず講和条約を結ぼうという考えでした。ソ連まで入れて講和条約を結ぶのでは、日本はいつまでたっても独立できない。現実路線を右派はとるわけです。鈴木茂三郎を中心とする左派社会党は、ソ連も一緒になって講和条約を結ばないと、本当の独立とはいえないとしたのです。当時、「全面講和」などと紙誌上で論議されましたが、この全面講和とは、ソ連を入れて講和条約を結ぶということです。講和条約が締結できないということは、日本は独立できないということです。

GHQは、労働組合から共産党の影響を排除しようとしていました。共産党支配の産別会議の中で、労働組合を共産党に支配させてはいけないという人達が産別会議の中に民主化同盟を結成します。総同盟に民主化同盟と中立組合を加え、反共民主労組として1950年に結成されたのが日本労働組合総評議会(総評:連合の発足により1989年解散)です。総評はやがて社会党と手を結び、産別会議は共産党へと分かれていきます。

■「55年体制」と日本の政党
総評は昭和25年に結成されてから30年近く、「昔、陸軍、今、総評」といわれるくらい、戦後社会のなかで多大な力を持っていきます。総評は、産別会議に対して、「全国産業別労働組合連合(新産別)」を結成し、反共産党の労働組合の結集が実施されました。ところが、この総評の中に、再び共産党が入り込み、次第に政治闘争に傾斜していき、反基地闘争や反政府闘争を実施するようになっていきます。例えば、炭鉱労働組合は63日間のストを打つ。違法だが、共産党系の組合が電気を停めてしまう停電ストというのも実行されました。当時は、「ニワトリがアヒルへ」という言葉が使われました。共産党から分かれて総評ができたのに、この総評がまた左になったので、ニワトリができたと思ったら、いつの間にか、ピョンピョン飛び跳ねるアヒルになっていたというわけです。

1951年(昭和26年)9月8日、アメリカのサンフランシスコ市において、アメリカを始めとする第二次世界大戦の連合国側49ヶ国との間で、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)と同時に日米安全保障条約が締結されます。日本をアメリカの軍事力で守ってもらうということですが、極めて不平等な条約でした。

1953年(昭和28年)、総評は高野実の共産党路線から、太田薫、岩井章の左派が社会党路線へと転換していきます。太田薫と岩井章の二人が経済闘争路線を重視し、反共産党、反高野闘争を実施して、総評を社会党路線に引き戻すのです。総評では左派が主導権を握り、日本社会党と接近しました。これに反発した右派は会派をつくり、後に総評から脱退、総同盟の右派と海員の労働組合、全繊同盟等、社会党路線に飽き足らない、より右の労働組合が1954年(昭和29年)に全日本労働組合会議(全労会議)を組織します。また、地位低下に悩む中立組合は、1956(昭和31)年に中立労働組合連絡会議(中立労連)を組織していきます。

社会党は割れていましたが、1955年(昭和30年)10月、憲法改正阻止・革新陣営結束のもとに右派社会党と左派社会党が再統一されます。これがいわゆる「55年体制」です。同年、保守合同により鳩山民主党と吉田茂の自由党が合併して自由民主党が結成されます。自民党、社会党による、「自社対立時代」の政治の始まりです。

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