2010/03/14

リーダーの育成 3 自己規制

私達を感情的にするのは生物学的な衝動です。この衝動を排除することはできませんが、かなりの部分のコントロールは可能です。心のうちの会話とも言うべき自己規制は、感情の虜になることから救ってくれます。自己規制ができる人も、他の人と同じように不機嫌になったり、情緒的な衝動に駆られたりしますが、それらをコントロールする方法や、うまく利用する方法を身につけているのです。

リーダーにとって自己親制は次の2点で重要です。
第一に、自分の感情や衝動がコントロールできる人は、他者と信頼し合える公正な環境をつくり出すことができます。企業内の不正の多くは、衝動的な行動によって発生しています。最初から計画的に、利益の水増し、経費の不正穴埋め、横領、利己的な権力の悪用等が行われるケースは稀です。偶然の機会が訪れたときに、衝動のコントロールができない人が、それに乗ってしまうのです。

言葉は正確に意思と意向を伝える点では優れており、複雑な内容も伝達することができます。その反面、正確、明確さは摩擦を高め、不満を生む欠点もあります。トラブルが起こったとき、人の思考は2つの方向に動きます。問題解決思考と問題解決思考の停止です。問題解決思考の停止が怒りに転換された場合、問題解決思考には戻れません。人は怒るとストレスを感じ、沸き起こった怒りの感情を無理に抑えようとしても、ストレスは増すばかりだからです。怒りを回避するには、トラブルが起きた際、思考を問題解決の方向に動かす習慣をつけることです。問題解決ということを常に考えていれば、何かあった時でも怒りという方向には行かないのです。

自己規制は周囲に浸透する作用です。リーダーが組織の長として行う重要な行動は、人員資源の配分と人事賞罰、情報ルートの選定です。リーダーが何を好み、何を嫌っているかは、この3つによって周囲に受け止められます。孔子が「君主は徳を以て天下を治めよ。君主に徳があれば世の中も自ら不正を排除する」と考えたのは、君主の雰囲気が広く伝播する点に注目したからです。上司がいつも冷静な態度を保っていると、部下も感情に流される人間だと思われるのを嫌います。トップが不機嫌になることが少ないほど、組織全体も不快な気分に支配されなくなるのです。

部下を指導する際に必要なのは叱ることです。部下が社会人としての常識やマナーをわきまえていない事を教える問題解決思考です。怒りと叱るは異なりますが、上司が自分の意思を伝える為に、声を荒げ、興奮している状態は一見同じに見えます。声を荒げる行為は、組織を不快にさせます。指導された部下が、大きな声で怒られたことは覚えているが、その内容は覚えていないとすれば、指導方法に問題があるのです。

第二に、自己規制は競争力にとっても重要です。今日の企業の現場は先行き不透明で変化が激しく、テクノロジーは仕事の内容や働き方をめまぐるしいスピードで変化させます。自分の感情をコントロールする術を持った人は、急激な変化についていくことができます。人間関係で最も大切なことはお互いに信頼し合えるかどうかです。信頼度が高いときには、些細な間違いや多少のコミュニ-ション不足位は許せるだろうし、言葉ひとつで頭にくることはありません。しかし、信頼度が低いときには、ほんの些細な事でも許せないのです。目的を共有できる仲間を無視し合うほど非生産的行為はありません。信頼し合える組織には有能な人材が集まり、簡単には辞めていきません。そのような環境では、政略や内紛が大幅に減り、生産性が高まるのです。

相互依存関係は自然の法則です。この事を強く認識できなければ、自己成長は有り得ません。

組織では、自己規制も自己認識のように正当に評価されにくいのが現実です。自分の感情を自制できる人は、煮え切らない性格だと思われがちです。考え抜いたうえで答えたことを情熱の欠如と受け取られてしまうのです。その反面、激しい気性の人はリーダーの「典型」だと思われがちで、感情を爆発させることがカリスマ性や力強さの表れと取られます。しかし、このタイプの人がトップの座につくと、自身の衝動的な行動に足元をすくわれやすいのです。

2010/03/06

新世界社会秩序に向けて

参考:Prognosis 2012: Towards a New World Social Order

地球上の資源は有限です。したがって、成長に限界があることは必然です。二十世紀は多様な思想と制度を生み出し、技術的進歩を成し遂げました。目指したのは工業型社会ですが、私達が限界に向かう時間を加速させました。工業型社会とは、規格大量生産によって需要を超える物材を供給する、生産を中心とした量産システムです。物材の供給量を増加させる為に、生産をより効率化し、市場を拡大していくのが目的です。産業革命以来、技術的進歩の主流は大型化、大量化、高速化であり、世の中の発展の象徴でした。しかし、ある時点で必ず成長の限界点に達します。

世界は、1970年代にその限界点に達しました。資源多消費型による、工業型社会は規範的崩壊により新しい経済システムへ転換していくのです。1971年の金ドル交換停止と変動為替性の採用により、世界経済の基本が変わりました。人類は史上はじめて、物質的な裏付けの無い完全なペーパーマネーを持つようになりました。アメリカが、基軸通貨発券国として、ペーパーマネー社会の特権を利用していくのは80年代に入ってからです。また、73年と79年の石油危機は、物価体系を根本的に変革しました。従来の工業品有利の物価体系が資源農産物急騰により崩壊し、この修正のためにスタグフレーションが起こりました。

70年代以降の新しい経済システムは、生産を拡大して成長を求めるのではなく、比較的管理された生産によって最適工業社会を目指し、より大きなリターンを得ることが出来る経済システムです。技術開発の主流は、多様化、情報化、省資源化へと移行します。経済システムは、グローバル化、民営化、通貨市場と金融商品によって、成長していくことが可能になりました。グローバル化とは、将来、より大きな利益を提供することが可能な、低成長地域への投資拡大です。民営化とは、国家が投資した公益事業の民間への移転です。公益事業は、あればみんなが助かりますが、公共事業は、なければみんなが困ります。故に、公共事業は不採算事業であり、国家が投資しなければならないのです。通貨市場と金融商品は、現実世界では何も生産もせず、金利により経済成長拡大の幻想を引き起こしました。

70年代までの資本主義は、急速な成長により有効に機能しました。70年代以降は、グローバル化、民営化、通貨市場と金融商品で資本主義は延命されました。そして現在、計画された崩壊が起こり、国家は膨大な国債によって縛られることになりました。国家の支払能力が毀損し、グローバルな金融システムが系統的に解体されていくと、通貨価値が毀損していきます。どんな種類の回復戦略も大失敗の可能性が高く、そのような環境では、成長の必要性によって動かされる経済体制ではなく、社会主義的なコントロールされた経済体制に移行していかざるを得ません。私達は、経済情勢における政府の介入で、既に経済モデルが移行されつつあるのを確認することができます。非成長経済において、生産のメカニズムは劇的に変化します。非成長の経済学は資本主義的な経済学と根本的に異なるのです。

資本主義は、成長によって動かされる経済体制です。資本家のビジネスとは、利益の管理であり、その管理は銀行と仲介会社との間でなされます。投資銀行や証券引受業者が階層構造の最上部を占有しているのは、驚くべきことではありません。そして、事実、ロスチャイルド一族とロックフェラー一族を含む、一握りの銀行家の一族がいます。(これらの一族は、世界の経済、政治を支配するようになりました。秋月便りにて真実のロスチャイルドを連載中)これらの資本家は、資本主義が拡大している間に世界をコントロールする権力を獲得しました。彼らは、資本主義的なシステムは成長の限界点に達するという事実をよく知っています。成長の限界でなされる異なったシステムへの転換は、彼らの権力を今後も維持していくために必要なのです。彼らは、通貨が何であるかを定義することができ、新しい種類の通貨による経済ルールを作ることができます。それが何に変わっていくのかを私達は理解する必要があるのです。

成長の時代には、経済の生産側に主導権がありました。成長経済では、利益は賞品であり、市場と販売チャネルを支配するルールを確立した者が勝利者となりました。ルールは成長の手段を制御することを目的としており、成長のエネルギーは資本需要でした。非成長時代には、経済の消費側に主導権が移ります。非成長経済では、供給および分配のためのルートを安全に確保することができた者が勝利者となります。ルールは生活必需品を制御することが目的とされます。安全なソースのもとで、直接分配を割り当てるのは、非成長経済を管理していく必須の条件です。既に、食物とエネルギーの制御が始まっています。また、このシステムは他の重要な希少鉱物などの資源にも適用されます。人口の増加は生活必需品の要求圧力を増加させるが故に供給の制御が必要になるのです。

地球温暖化とピークオイルのプロパガンダは成功し、世界の環境保護運動は高まりました。現在、農業が食糧生産からバイオ燃料としてエネルギーに変換されている現状は、食品価格がエネルギー価格にリンクされているということです。エネルギー供給チェーンでの崩壊は、食物サプライ・チェーンにおける崩壊となるのです。結果として飢餓の大規模な増加を引き起こします。

危機管理とは最悪を想定した複数の選択肢を持っておくことです。選択肢の発動は今後の経済システムの誘導です。故に崩壊は偶然でなく、制御崩壊となります。炭素収支、および二酸化炭素排出権は、経済の第一の構成要素になるように誘導されています。エネルギーを費やす資格があることで富が測定される社会です。消費、リソース、及び分配のコントロールの焦点は、グローバル資源の減少です。成長の限界が明確になった時、新しいパラダイムの転換が示されます。

2010/03/04

リーダーの育成 2 自己認識

「汝自身を知れ」とは、デルフォイのアポロン神殿に刻まれていた、ギリシアの七賢人の一人であるスパルタのキロンの言葉です。ソクラテスはデルフォイの神殿においてもたらされた「ソクラテスより賢いものはいない」との神託を聞き、神託を否定するために賢者とされている者のところへ赴きました。そこで彼は、相手が「知らないのに何か知っているように思っている」ことに気づき、自分の方が自らの無知についての知があることを悟りました。

それまでの哲学者は、自然や宇宙といった外部に目を向けていましたが、ソクラテスは人間の内面を覗き込むという点に目を向けました。外部に目を向けている間は、人間性の成長はありません。ここから哲学が始まったといってもよいのです。汝自身を知れは、人間自身のあり方によって世界の見え方が決まるという観点から、人間自身のあり方を問いかけているのです。無知の知とは、自らの無知を自覚することが真の知に至る出発点であるという事であり、自己反省の結果得られるものです。

人間が産まれたときは、動物学上の分類における人類にすぎません。人間は生まれた後に、人間としての格を獲得して初めて人間となるのです。常識で考えるのではなく、常識を考えるという哲学の立場から、「人間」を哲学的な問題意識に転換すると、「人間であるとはどうある事なのか」、「どうなれば人間に成ったといえるのか」という問いが出てきます。この問いは、人間存在における根源的問いです。残念ながら、現代に生きる人々の大半は、この問いに対する答えを見失っています。故に、世界規模で論理観が欠如し、犯罪増加を招いているのです。犯罪が低年齢化するのは、大人たちが人間の生き方を知らないため、子供たちに明確な指針を示せていないからです。「私はこう思う」という答えを持って、初めて教育が出来るのです。答えは、その時々の時代、民族によって異なりますが、この問いは人類が存在する限り変わりません。答えを持つことよりも、問い続けることが大切なのです。

自己認識とは、自分の感情、長所、短所、欲求、衝動を深く理解することです。自己認識の能力が高い人は、必要以上に深刻になることもなければ、楽観的になりすぎることもありません。自己認識に優れた人は、自分の感情が自分自身、他者、自分の仕事の結果にどう影響するかを理解しています。よく自分自身の人間力を上げなければならない、とも言われますが、具体的にはどのようなことかを考え、自分にとって何が足りないのか、どのように高めていけばいいのかを考えて実践していかなければ、自身の成長は望めません。自己認識ができれば、自分自身の価値観や目標が理解できます。自己認識に非常に優れた人は、自分が何を目標にしているのか、なぜ目標にしているのかを理解しているので、その意思決定は価値観と適合しているのです。

自己認識能力を判別するには、どのように考えれば良いだろうか。第一に、自己認識は、正直さと自分を現実的に評価する能力に表れます。自己認識に優れた人は、感情をむき出しにしたり、洗いざらいぶちまけないでも、自分の感情やそれが仕事に与える影響を率直に口にすることができます。自己認識の特徴の一つは、率直に失敗を認め、失敗談で自分を笑い飛ばせるユーモアのセンスとも言えます。自己認識ができるかどうかは、その人の自信からも判断できます。自分の能力を正確に把握している人は、期限が過ぎても仕事を終えられないという類の失敗はあまり犯しません。また、人に助けを求めるべき時も知っており、自分が冒すべきリスクも計算できます。自分一人で処理できない難題を求めることは無く、長所を生かして仕事をすることができます。自分をよく知れば、仕事を活力源と考えることができ、仕事の結果もついてくるのです。

自己認識に優れた人材を登用することが有益であるにもかかわらず、多くのトップは感情を正直に表すことを「軟弱さ」と取り違え、自分の欠点を率直に認める社員を正当に評価していません。そのようなタイプの人材は、人の上に立つのに必要な「強さがない」と決めつけてしまうのです。ところが、実際はその逆です。リーダーは、権限や権力ではなく人間性によって人々に影響を与える存在です。部下は、一般に誠実で何事も首尾一貫していることに感銘や尊敬を感じるのです。多くの人は、「何を言っているかよりも、誰が言っているのか」を重要視します。信頼されていない人が、どんなに正しいことを言っても相手は動きません。さらに、リーダーは、自分自身と他人の能力を公正に評価する判定能力がたえず求められています。自分を正直に評価できる人、つまり自己認識のできる人こそ、組織の能力を正しく評価するのにふさわしいのです。

2010/03/03

格差の助長

日本の人口は現在約1億2千万人ですが、今後は減少していきます。企業にとっては、消費者(顧客)の数が現在以上に増加しないことを意味しています。富裕層向けビジネスの企業戦略は、顧客数を増やすことより、客単価の高い優良な顧客だけを選別して質の高いサービスを提供していこうとするものです。富裕層の一般的な定義は、資産から負債を引いた「純金融資産」を1億円以上持つ世帯です。2005年の調査では86.5万世帯だった富裕層は、2007年に90万世帯以上に増加しました。

そこで重要になるのが“優良顧客”の定義です。各企業が手掛ける事業や商品の内容によっても異なりますが、銀行では「1億円以上の資産を持つ人達」と捉えており、メーカーや小売業界では、金融資産が3千万円以上あり、購買意欲が旺盛な人達のことを新富裕層として獲得に力を入れています。数字だけをみれば、日本では2割以上の世帯が富裕層に該当することになりますが、「準富裕層」「新富裕層」という言葉は、物やサービスを売ろうとする企業が生み出したマーケティング用語であり、富裕層に憧れる上位大衆層のことを指しています。本物の富裕層といえる1億円以上の資産家は全体の1.7%に過ぎません。

米国カード業界では利用者の信用ランクを「スーパープライム層」「プライム層」「サブプライム層」という三段階で区別しています。米国での「サブプライム層」は貧困者ではなく、年収2万5千ドル以下の世帯を指しており、米国内で約4割の世帯が該当しています。日本の状況に当てはめると、年収3百万円以下の世帯がサブプライム層ということになります。年収3百万円以下の世帯数は給与所得者の38%(約4割)であり、米国と同水準なのです。所得の分布だけをみれば、大きな格差が付いている状況は、日米共通です。クレジットカード業界は、先進国では国民一人あたりが既に3枚以上のクレジットカードを保有しており、これ以上の発行枚数が見込めないことに加え、カード債権の貸し倒れ率は5%以上と高いことから、信用ランクの低い利用者の勧誘は抑え、優良顧客の獲得に力を入れたいという思惑があります。カード業界に限らず、物やサービスを提供する企業では、信用ランクの低いサブプライム層の顧客よりも、プライム層とスーパープライム層の獲得に力を入れようとする動きが顕著になり、米国企業では、それがサブプライム問題から学んだ解答だという捉え方をしています。日本の消費者信用市場では、貸金業規制法等の改正も含めた市場の変化に伴う信用収縮・返済不能問題等により、年収3百万円以下の人達に対する審査条件はさらに厳格化されていきます。
さらに税制の問題があります。税制は、国家主導で行われる所得の再分配制度であり、格差を縮小するために運用すべきシステムです。しかしながら日米ともに正常に機能していません。

日本は、2000年から漸次行われてきた法整備で、格差が助長されました。
・00年 累進課税の引き下げ〔課税所得5000万円超対象〕  60%→37%
・03年 相続税・贈与税の最高税率引き下げ       70%→50% 
・05年 所得税・住民税の最高税率引き下げ       88%→50%   
・07年 定率減税の廃止〔課税所得200万円未満〕      5%→10%
・その他、租税による不平等度の改善効果   4.2%(86年)→ 0.8%(01年)

米国は、IRS (The Internal Revenue Service アメリカ合衆国内国歳入庁)の統計で状況を確認することができます。
SOI-Tax Stats-Taxpayers with Top 400 Adjusted Gross Income
総国民所得に占める上位400グループの割合は、1992年の0.52%から2007年の1.59%に増加しています。1993年の上位400グループの所得は確定申告書類平均で4600万ドルでした。これらのグループは、2006年と2007年間に所得が31%増加しています。1993年から2007年の間、このグループの平均所得は8倍に増加したのです。このグループの実効税率は、1995年の段階では約29%でした。クリントン政権の末期では22%に低下、ブッシュ大統領の下で実効税率は、2001年から2007年の間でさらに6%低下したのです。

日米ともに税制の法整備は、富裕層の既得権益を保護するための税率変更に他なりません。いったん下流の「負け組」になれば、容易には這い上がることができない税制度が構築されているということです。「構造改革」を標榜した小泉政権は、大衆を没落させ一部の富裕層が優遇される社会を創りました。富を一極に集中させるための制度改革であり、民営化は国富を外資に移行するための政策でした。それが資本主義だと言われればそれまでですが、知らぬ間にデフレ経済で我慢を強いられた挙げ句、中流層以下にあった資産が没収されていったも同然なのです。サブプライム問題と、スーパープライム層を対象とした富裕層ビジネスは裏表の関係なのです。

2010/03/01

リーダーの育成 1

組織は志を達成するための内部体勢の構築であり、組織という目的意識を持った集団のトップがリーダーです。組織活動があってはじめて大きな成果を生み出す事ができます。組織人なら誰でも、次のような話を一度は聞いたことがあると思います。

・知的で熟練した人物が部下を統率すべきポジションに昇進したが、リーダーとしては機能しなかった。
・知的能力も技術的熟練度もそれほどずば抜けているわけではない人物が、同様の地位についたら、とんとん拍子に出世した。

リーダーとして「適切な資質」を持つ人材を発見することは科学より芸術の域に近く、適切なリーダーを見極めるのは非常に難しいのです。

今日、大企業の多くが「コンビテンシー・モデル」(能力モデル)を開発しています。モデルを使って、リーダーシップの候補者を発見し、研修を施し、昇進させるのです。モデル開発の狙いは、企業の中で、どのような個人的能力が業績に貢献したのかを突き止めることです。知性は業績の原動力となり、大局的なものの見方や考え方、長期的なビジョンといった認知能力は、重要な役割を果たします。しかしながら、最高水準の教育を受け、鋭敏で分析力のある頭脳を持ち、気のきいたアイデアを次々と出すことはできても、それだけではリーダーにはなれません。IQ(知能指数)と技術的熟練度は重要だが、「最低限の能力」として重要なのであって、組織幹部という道の入り口に立つときの必要条件にすぎません。組織の構成人員は、様々なバックグラウンドを持つ人員の集合体ゆえに、多くの対人問題を解決していく能力が本質的に要求されるのです。高業績を生む資質として、知的能力、技術的熟練度によるものではなく、対人問題を解決していく能力の差がリーダーシップの有効性の原因になっているのです。組織としての能力を最大限に引き出し、志を達成していくにはマネジメントを実施する人が「人に強くなる」しかありません。

個人の持つ資質は、生まれや、育ち、年齢・性別、経験、考え方や価値観などで形成されていきます。それでは、ある人物の資質がリーダーに向いているかどうかは、どうすれば解るのだろうか。また、自分の水準はどうすればわかるのだろうか。本稿では、こうした疑問と開発の方法を探っていきます。