日本がサハリン資源開発に関わるようになったのは 1973年からです。1973年(昭和48年)10月、田中角栄首相の訪ソをきっかけにして、シベリア資源開発の話が持ち上がります。当時の日本は高度成長期で安定したエネルギーの確保、ソ連は海洋資源開発の資金と技術を望んでおり、両国の思惑が一致したことで、10月10日、日ソ科学技術協力協定調印となりました。日ソ協力事業としてシベリア開発がスタートし、サハリン大陸棚開発はそのひとつとして動き出します。
1973年11月16日、日本政府は石油緊急対策要綱を閣議決定。「総需要抑制策」が執られた結果、日本国内の消費は低迷し、大型公共事業が凍結・縮小された、第一次オイルショックです。中東に大きく依存するエネルギー政策の見直しと、中東地域以外からのエネルギー直接確保が急務となります。
サハリンプロジェクトは、サハリン島北東部の海底での探鉱が進み 77年と79年には2つの鉱床が発見されています(現サハリン1)。採掘へと移行していくはずでしたが、80年代に入ると石油価格は暴落。そのまま90年半ばまで棚上げ状態になってしまいます。
このサハリンの石油に絡んでいたのが、元農林大臣・科学技術庁長官だった中川一郎代議士です。中川氏は総裁選に立候補し、惨敗したあと札幌パークホテルのバスルームで「謎の自殺」を遂げています。これについては、いまだ「他殺説」が絶えません。「新潮45」が2001年3月号より、「中川一郎怪死事件-18年目の真実」という連載を始め、それに鈴木宗男が関わっているのではないかという記事を出した段階で連載が中断されています。一方で、旧ソ連のKGBの対日工作責任者であったイワン・イワノビッチ・コワレンコ氏が、1996年に『対日工作の回想』と題する自伝を発表。その中で、「中川氏を買収して、ソ連のスパイ機関の手先にしたてようとした」「そのため中川氏は、アメリカのCIAに暗殺された」という事実を暴露しています。
今となっては、旧ソ連に近づいた「スパイ中川」をアメリカのCIAが暗殺したかどうかは、もはや歴史の中に封印されているのです。これにはもう一つの説があります。中川氏が三井物産と組み、サハリンの石油利権を得ようとしたことに対し、アメリカのCIA、あるいは石油メジャーの手先が暗殺したのではないか、という説です。いずれにしても、1983年1月9日に亡くなった中川氏の死を、自殺だと信じているものはほとんどいません。
というより今回中川にからんでるのはブルームバークの連中。CIAというよりろくでもないのね。
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