■企業別労働組合と春闘方式
春闘は1956年(昭和31年)に始まり、この年代から日本は高度成長の時代に入っていきます。高度経済成長時、「松下は松下一家だ」、「東芝は東芝一家だ」という企業一家意識が出てきます。アメリカやヨーロッパの労働組合と日本の労働組合は組織形態が違います。欧米の場合、労働組合は鉄鋼なら鉄鋼、繊維なら繊維ということで、産業別に組織されます。日本の場合は、企業別に労働組合が組織されていきました。GHQが労働組合をつくらせた時に、会社、企業ごとに組合を組織していったことと、企業一家意識が企業別労働組合を結成させたことが背景にあります。
産業別組織の形態は、産業全体の労働者が一丸となって闘うから、闘争力、交渉力が強いのです。企業別労働組合は闘争力、交渉力が弱いので、カバーするためにつくり出されたのが「春闘方式」です。春、賃上げを巡って一斉に闘争するスタイルです。高度経済成長時、「鉄は国家なり」「鉄は産業の米」と言われていたので、富士製鉄、日本製鉄(現在の新日鉄)等、鉄鋼が非常に強くなっていきました。鉄鋼労働組合が、企業別でありながら、産業別に、賃上げ交渉を春に集中的にやるという「春闘方式」をとったのです。次に、当時は「糸偏(いとへん)」景気というのがあり、繊維産業が強かったのですが、「鉄鋼が何%の賃上げを取ったのだから、繊維も上げろ」といって、繊維が次に続くのです。このような形式で、賃上げを戦って行くのが春闘方式です。この方式は、日本の経済がずっと右肩上がりで、平均10%の経済成長をしていたので成功しました。企業側も、賃上げ余力が十分にあったのです。そこで、春闘は二つの「闘争」を組み合わせました。ひとつは「ベースアップ闘争」で、賃金のベースそのものを、全体に引き上げるという方法です。さらに、その上に、「今年はこれだけの業績が上がった」ということで、賃金も上げる「賃上げ闘争」です。この二つを組み合わせて、春闘はかなり大幅な賃上げを獲得していきました。「昔、陸軍、今、総評」と言われた背景には、春闘の力も大きな影響があったのです。
■安保闘争とナショナルセンター
1960(昭和35)年、岸信介が日米安保条約の改定を明言しました。岸信介は、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供するための条約から、日米共同防衛を義務づけたより平等な条約にしたいということで、安保改定を図り、1960年1月19日に日米安全保障条約に調印します。これが大政治問題となります。
社会党はイデオロギーが非常に過剰な政党で、政党が一本になっても内部抗争が絶えませんでした。社会党のドグマ(教条主義)、階級政党に非常に不満を持ったのが、現実主義的な社会民主主義者である西尾末広です。社会党は、「階級政党から国民政党へ」と言う西尾を徹底的に叩きます。社会党を除名された西尾末広は、日米安全保障条約が調印された1960年1月に民主社会党を結成します。
平行して起きたのが、九州の三井三池炭鉱闘争(1960年1月、三井三池争議無期限スト)です。かなり苦しくなってきた労働側は、炭労という最強の労働組合に立てこもり、「炭労で、総資本と総労働の対決をやる」ということで、長期に渡って三井三池闘争をやりました。しかし、これは結局、労働組合側の敗北に終わります。
日米新安全保障条約批准をめぐり、1960年5月19日に衆議院で、自民党が単独で抜き打ち採択して安保改定を成立させたことから「安保闘争」はかってない高まりをみせていきます。「安保反対、岸を倒せ」ということで、学生や労働組合が国会に突入する。そして、全国各地で安保反対運動が起こることになります。しかし、日米安全保障条約の改正は、1960年6月19日を期して参議院の議決がないまま自然成立します。7月に岸内閣が退陣します。権力によって潰されたということで、11月の全学連等の国会構内乱入事件と拡大されていくのです。そして、やがて安保闘争も凄まじかった火が消えるのです。
全労会議は1962(昭和37)年の全日本労働総同盟会議(同盟会議)を経て、1964(昭和39)年に全日本労働総同盟(同盟)を結成します。以降、勢力の順に総評、同盟、中立労連、新産別となり、ここから、「総評」「同盟」という二つの労働組合の全国組織時代が続いていくのです。傾向として、総評は官公労組が多く、同盟には民間労組が多い。政治的には総評が日本社会党を、同盟が民社党を支持していました。
岸政権が倒れて一つの政治の時代が終わり、池田内閣が発足します。池田勇人は、「私は嘘は申しません」ということで、所得倍増計画をスローガンに掲げて高度経済成長路線がスタートしていきます。事実、日本は所得倍増どころか、年率平均で最高13%の経済成長を遂げ、所得は3倍、4倍になっていくのです。1960年代は、アメリカの生活水準の2割です。それが70年代になると、アメリカの生活水準の4割になり、85年のプラザ合意の時には、1ドル240円が120円になったこともあり、ついに日本はアメリカの一人当たりのGDPを追い抜き、世界第一の豊かな国になっていったという経過があります。
■高度経済成長と生産性向上運動(マル生)
高度経済成長に突入した日本では、もはや労使対決主義、階級闘争主義は無意味になってきます。そして、「日本生産性本部」を経営者が作り、「生産性向上運動」(マル生)を実施します。労働組合もだんだん力が弱まってきます。しかも高度経済成長で賃金が上がる、持ち家が増えるということで、日本の労働組合は、「ヨーロッパ並み賃金をよこせ」と要求を変えてくるのです。
その中にあって、総評で跳ね上がったのが、国家公務員、地方公務員等の官公労です。ちょうどI LO(国際労働機関)が、日本は公務員のスト権を奪っていると批判した時代です。I LO条約の批准闘争として、スト権を獲得するためにストをやる「スト権スト」を実施しました。
日本の労働組合はだんだん集約され、1987(昭和62)年には民間の労働組合55単産、5540万人が結集して、全日本民間労働組合連合会が結成されます。1989(平成元年)年には「全日本労働組合総連合」(連合)が結成され、78単産、800万人が結集します。一方、それをよしとしない共産党系の労働組合が「全国労働組合総連合」(全労連)を結成し、これに40万人が加盟しています。社会党左派系は、「全国労働組合連合協議会」(全労協)を結成し、50万人が加盟しています。連合800万、全労連40万、全労協50万という、「1強2弱体制」が生まれたのです。
■現在の労働組合
1991年12月、日本はバブル崩壊。日本の企業風土は、アメリカ型の「能力主義・成果主義・株主主義」に変化していきます。2003年は1956年(昭和31年)に始まった春闘が終わった年となりました。1956年が春闘元年、2003年は春闘御臨終の年です。連結決算で1兆円の利益を上げたトヨタ自動車が、ベースアップも賃上げも実施しなかった年なのです。つまり、春闘方式では賃上げは取れないということです。一昔前までは、春闘というと会社の門に赤い旗が立って、組合の名前が出たりしていましたが、もうあのような姿を見る機会は少なくなったと言えるでしょう。
組合員の意識変化や選挙での集票力が落ちるなど、社会的影響もあり、組織率、組合員数は減少しています。2003年には組織率19.2%となり、戦後初めて組織率が20%を切りました。2009年6月30日における単一労働組合の労働組合数は26,696組合、労働組合員数は1,007万8千人です。推定組織率(雇用者数に占める労働組合員数の割合)は、18.5%となり、2006年から18%台を維持しています。
平成21年労働組合基礎調査結果
現在の日本において、労働争議、ストライキという言葉を聞くことはありません。企業再編の時代において、労働組合における組織率は低く、企業内労使協調路線でしか存続していけないのです。
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